8月15日に、私が朗読を始めるきっかけを作ってくれた、現代朗読協会の主催でもあって、最近はNVC(ノンバイオレンスコミュニケーション.非暴力のコミュニケーションを通じて世界を平和にする活動..と、理解している)などの活動で、人々を啓蒙したり、癒したり、することもしていた、作家、ピアニスト、画家そして現代朗読演出家、の
水城ゆうさんが、約1年の癌の闘病生活を経て、この世界から旅立った。
おもえば、私が、そうとう痛んでいた頃(笑)商業演劇とかでほとほと疲れて、派遣社員の証券業で楽しく働きつつも、なにかやっぱりやりたくて、恋だの仕事だの、という普通の生活みたいなのに溺れそうな自分に危機感を感じてた時に、出会ったのが水城さんだった。
かれこれ16年位前。
初めは、通りに面した交差点のテラスハウスに収録ブースがあった。
家も遠くなかったので、足繁く自転車で、その水城さんたちの根城に通った。
私が通い始めて、ほどなく、そこから50メートルくらい先の酒屋の地下にスタジオを移すことになって、引越しも少し手伝った。
水城さんのパートナーのまりさんが、当時、アイ文庫、という、出版と、オーディオブックのコンテンツを作る会社を経営していて、水城さんの本とか、翻訳本とか、ラジオのコンテンツなどを制作していた。私はそこで、オーディブックのための朗読収録を初めてやらせてもらった。収録をしながら、まだ誰もやったことのない朗読をやろう!と、とにかく面白い事を探しながら、酸素の薄い酒屋の地下でたくさん時間を過ごした。宮沢賢治とか、新美南吉とかやりたい、なんていうと、そんなつまらないもんやめておけ。とか言ってた(笑)。後年、それらの作家をたくさん取り上げて公演したりしてるあたりに激しく矛盾を感じさせたりもするけど(笑)
その地下室は水城さんの住まいでもあって、あまりの湿度と陽の当たらなさで、みずきさんは度々体調を崩していた。それでも悲壮感のかけらもなくて、首を痛めて、コルセットをはめてる水城さんを首長族みたい、とかいってからかったりもした。
オーディオブックの収録は、排水管とかがある部屋に、大きなスポンジや毛布を貼って、
小さい机に小さいマイクを置いて録音していたが、今から思えば、水城さんが音声収録にかけたお金は結構莫大だったと思う。
収録する人や作品が増えて、どんどん本格的な機材も増えていった。
なのに、酒屋が上で作業すると、ゴロゴロ台車の音が響いて収録は中断した。
救急車が出動しても中断したし、ブースの外で、誰かが大笑いして中断することもあった。
なにもない広い地下室に、水城さんとパートナーのまりさんは、テンポスバスターという店で、飲食店が廃棄した厨房の機材を買って来て、立派なキッチンも作った。そこで、水城さんのつくる美味しいご飯を、
みんなで、たくさんたべた。本当にたくさんたべた。
料理の本も書いていたくらい水城さんは料理の腕が冴えていた。
そこには、いろいろな人が集まった。
ほとんど私より若い人だったけど、ギラギラしてない人ばっかりで(笑)本当に楽しかった。
その中の声優をやっていた人から紹介してもらった講師業は今でも続けさせてもらっている。
おもえば、本当に私の人生がここでつながっている。
そこは、芸能界じゃないし、生き馬の目を抜かなくてもいいし、ぼんやりしてても、目を抜かれることがない世界だった。
ただただ、朗読をしたりして、その作品について、作家について語ったり、
新しい作品を選んだり、水城さんの書いたエロ小説(笑)(純愛小説もあった)を収録したり、ライブをやってみたり。
そのライブは、アイ文庫にとって初めてのライブだった。
そうそう、その恋愛小説に付録のCDをつけることになって、ナレーションを担当したことから、
営業を命じられて(笑)、POPを書いて、紀伊国屋書店(本店)に売込みにいって、置いてもらったりもした。
そのうち、アイ文庫は、現代朗読協会というNPO組織を立ち上げて、朗読活動はどんどん広がった。
酒屋の地下から、もう10メートルくらい先の立派なマンションの地下のスタジオに場所は移った。
グランドピアノもあった。
いつしか私は、多分水城さん達にフォローしてもらって、いろんなことへの耐性も免疫も、自信ももどってきて、
NPOを作るときの公演に、今の事務所の社長に見に来てもらい、所属が決まって、すこし芸能界に戻った。
事務所に入ってからの私は、すこしずつ、水城さんたちの方向性と少しづつだけど変わって、
いろんなタイミングも、ずれていった。
やろうといっていた作品も未完のものが増えて、読みかけのテキストが積み上がって行った。
そのズレとか距離は、お互いの成長の上で、当然、あることだったと思うし、
必要なことだったのかもしれないことだと思う。
それでも、芝居が終わるたびにいろんな愚痴を聞いてもらいにいったりもしてて、
そのたびに、演劇なんかやらないで、朗読家になりなよ。と言い続けたのも水城さんだけだった。その事をずっとずっと考えながら、芝居をしている。笑。
今から思えば、こんなに恵まれてた関係はなかったのかもしれない。社会的な成功とか、経済的な成功とか、
そうゆうことではない、大事な大事な事を血縁以外の人から、
喜びとか楽しさとかさびしさとかいらだちとかむなしさを仕事以外で味わえること、は、
大人になってからは、多分、そうそうないんじゃなかったんだろうか。
そのうち、水城さんたちは羽根木の古民家に引っ越して、活動は多岐に渡り始めて、NVCの活動でも忙しく全国を渡り、水城さんは武術とかも熱心にやりはじめて、どんどん幅が広がって、ますますたくさんの人たちが来るようになった。世界中から。
そしてどんどん様々な形でたくさんの人に尊敬され始めて行った。
それでも、会えば、いつでもダラダラといろんな事を話したし、カレーを食べたり、
無意味にお茶を飲んだり、富士見台のボロボロの鶏肉屋さんの親父が焼く「超絶うまい焼き鳥」を教えてくれてたりした。
今、メッセンジャーのやりとりを読み返してても、距離感はずっと変わっていない。
まりさんがこよなく愛していた古民家を出ることになって、それを決めたすぐ後にも二人に会っていて、
環七を走るバスに三人で一緒に乗って引っ越すことになった経緯を聞かせてもらったりして、
もう自転車で行けない距離の国立に行ってしまうことに、あ〜、とおもいつつ、
永遠だと感じてた楽しさみたいなものから自立しなくちゃいけないんだと思ったりもした。
私の耳には水城さんの話し声がずっと残っているし、話した内容はあんまり覚えてないけど、過ごした時間の、
ほとんど薄いんだけど、記憶にすら残っていないギャグの感覚とか、楽しさとか、本当に印象に残らないB級映画の上映会とか、私のいらなくなった家具をもらってくれたのに、結局使わなくて、雨ざらしにした挙句、まりさん に怒られて粗大ゴミのお金を出して捨ててくれたこととか、それについて、かなり悪いなと思ったけど、最後まで謝れなかったこととか、代田橋の陸橋で、みんなで偶然見た彩雲とか、ノーギャラだったのに、重たいピアノを担いで恵比寿まで来てくれた、フィルムアート社のスタジオでのライブのあと、ご飯も食べずにまりさんと水城さんと三人で、渋谷まで歩いて、渋谷がまだ全然汚かった頃の駅前で、何を話したか覚えてないけど、うだうだ長話をして別れた夜のこととか、震災後に、ある会社がスポンサーになってくれて、車で仙台に連れて行ってもらい、朗読ボランティアをして、その夜、えげつないくらい大量のお寿司を食べさせてもらって、呆れられたこととか。その車中で、水城さんに執拗に何のシャンプーを使っているのか聞いて、アレッポの石鹸で洗ってると聞いて、どうやって洗ってるのかしつこく聞いて、嫌がられたけど、翌日同じ石鹸を買いに行ったりとか、
テレビドラマに出るからと見せたビデオに「すっげえへた」(笑)とか言われたこととか、
最後の共演になっちゃったけど、
2年前の横浜の長屋門のライブの打ち合わせでミスドで食べたパスタみたいなのが意外に美味しかったりとか、
去年ガンとわかってから食べたイタリアンとか、いつもいつも、「またね」と言ってたり、「なんかやろうよ」とかいって別れていたから、その「またね」がもう実現されない。という事を、昨日、棺の水城さんに対面して、しんじないといけないことに、しんじつがっかりしている。
恩人だったし、人生の先輩だったし、同志だったし、友達みたいな受け入れ方もしてくれてた本当に貴重なひとだった。
昨日は、旅立ち式、というイベントで送り出された水城さん。お祭りのような看取り方をしてくれた素晴らしい仲間に恵まれて、最高の旅立ちを、出発、という解釈で、送られた水城さん。葬儀じゃない。形で。人がやらないやり方で。オンラインで。
いろいろな人の人生にさりげなく、影響を与えてこの世から去ってしまった。まだ63歳だった。
あと何年かしたら、私もひさしぶり!っていって、そっちにいくんだろうって、初めて自分の死についても、思った。
自分がどんな人生の終わり方をするのか、ちょっと考える。のだけど、そんなことよりも、親を亡くしたときとは全く違う、もうこれ以上更新されることのない楽しい時間、への喪失感が、それなりに覚悟していた感じよりも、この別れは、後悔していない分だけ、ずっとずっと重たい。
どうしてもありきたりの言葉で、整理できないので、時系列で、水城さんとのことを考えてみた。すごく愛しいとか、そうゆうことじゃ全然ないのに、まるで映像を見ているようだ。
2年前の8月21日、長屋門で撮った写真。
2年前にUPしてくれていたyoutube.
(録音したのはだいぶ前)
それこそ、酒屋の地下で、ブースの外にピアノを置いて即興で同録で作ったのでした。